散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

見る・知る・学ぶ~まち歩きを楽しもう!

駅からさんぽ~川崎宿を歩こう(二)

六郷神社の正面の道(旧東海道以前の参道)は、多摩(六郷)川に面しています。

徳川家康が着手した五街道の整備でできた東海道には、当初、六郷川に橋が架かけられました。

関ケ原の戦いからはじまる豊臣を中心とする西側勢力の不穏な動きに対して、即刻軍勢を動かす目的がありました。

暴れ川として知られる多摩川だけに、橋の流失・再架橋を繰り返してきましたが、将軍・徳川綱吉、太平の世となり、柳沢吉保側用人とした1688年に再び大洪水で橋を流失したことから、橋を撤去して渡船場にすることになります。

現在の六郷橋には、その渡船を模した親柱があります。

ひらがな銘板には「ろくごうばし」とありますが、江戸時代、橋は「ばし」と呼んでも「はし」と書きました。

日本橋は「にほんはし」、京橋は「きょうはし」と書き、川(世の流れ)が濁らないよう縁起をかついだという説があり、幕府が開港場として整備した横浜にもその決め事が引き継がれて、横浜市が建設した橋には濁らずに「はし」と書かれています。

橋を渡ると六郷の渡しの碑があります。

この辺りが六郷の渡しの渡船口と思ってしまいますが、実際には当時、川崎宿側の河川敷が広くあって、川役所や高札場、渡し人足の寄せ場などが並んでいたようです。

レリーフには、明治天皇が京から東幸(江戸入り)にあたり、舟23艘を横に並べ繋いで板を敷き、天皇を載せた鳳輦を担いで通る光景が描かれています。

なお、同じく舟の橋を渡ったものがいます。

暴れん坊?将軍・徳川吉宗の1729年、長崎出入りの中国貿易商から「将軍に象を献上したい」という申し出があり、動物好きの吉宗も謁見を許したことから、ベトナムから長崎に上陸し、陸路をはるばる六郷川に造られた舟の橋を渡り、江戸入りしました。

途中、京の中御門天皇にも拝謁することになり、象にもかかわらず参内可能な殿上人の位・従四位をもらっています。

渡しの碑からすぐに、左は川崎大師に続く大師道、右に川崎宿東海道は入っていきます。

すると「万年屋跡」の解説板が立っています。

振り返ると、現・六郷橋の大きな道路が見えますが、その辺りに万年屋がありました。

朝、江戸を立つと、六郷の渡しを渡ったあたりで、ちょうど昼時になります。

万年屋は、お大師参りへ向かう人にも都合の良い場所にあったので、「奈良茶飯」というものを売り出し、一大旅行ブームを巻き起こした東海道中膝栗毛の弥次・喜多も食べたことから名物にもなりました。

そのおかげで大繁盛し、本陣にも匹敵するほどの大店となり、幕末に江戸へ向かうアメリカ総領事ハリスが、指定された田中本陣が寂れていて汚いという理由で、万年屋に宿を取ったという逸話が残っています。

続いてすぐのところに田中本陣跡の解説板が立っています。

東海道が整備されたときには、品川宿の次は神奈川宿で、その間19.6kmもあり、伝馬の継立もかなりの負担になったので、街道整備から22年後の1623年に川崎宿ができました。

その5年後にできたのが、下(田中)本陣です。

ただし、川崎宿は江戸から来ればちょうど昼時、保土ヶ谷神奈川宿から来れば川止めされない限り、渡って品川宿をめざす旅人が多く、宿泊しませんでした。

赤穂浪士の仇討ちの数年後、45歳で本陣の当主となった田中休愚(丘隅)は、困窮していた宿場財政の建て直しにかかります。

幕府から拝借金を得、六郷の渡しの渡船権も獲得、朽ちかけた二ヶ領用水の大改修、多摩川下流の築堤工事にも尽力し、三万石拝領の代官にまでなりました。

そろそろ休憩。

街道沿いにある「菓寮 東昭」という和菓子屋さんに「奈良茶飯風 おこわ」が売られています。