
ロシエの撮影した1859年の横浜村・横浜開港資料館蔵
瀬谷区で活動するガイドとして、なぜ瀬谷区が横浜市なのか?横浜市はなぜこんなに大きいのか?そもそも瀬谷区に住んでいて「横浜に行く」といったときには「横浜駅周辺」に行くことをいい、横浜の地名由来となった横浜村(現在の関内地区・本町通り)に行く場合は「関内に行く」というのを不思議に思わないか?と、信号待ちやトイレタイムの合間などで時間つなぎに話すように心がけています。
メタ坊がバリバリに勤めていた当時、横浜市内で生まれ育ち、かつ横浜市内で働いている人ばかりで、座敷や宴会場を借り切って酒宴を開くと、その締めくくりには「お開きのあいさつ」に続き、横浜市歌斉唱を肩を寄せ合って歌い、三本締めを打ったものでした。
横浜市歌は「我が日本は島国よ」からはじまり、2節では、横浜村が「むかし思えば、とま屋(苫屋:藁・萱葺き家屋のこと)の煙、ちらりほらりと立てりしところ」と歌われています。
実際どれほどの村だったんでしょうか?
中区史・沿革編:第一章第一節「横浜開港」(中区サイトにはないが、ググると出てくる)には、横浜開港直前には「横浜村その後の戸数僅かに一〇一戸」と記す。と書かれています。
「101軒?」ほんとに少ないね、と思いがちですが、半農半漁村とはいえ、あの限られた場所に百越えの村というのは、なかなかの規模です。
現在のようにローンを組めば誰でも家が持てると思ったら大間違い、江戸の「家」というのは、本家だの分家だのと、「家」を分けることには、それを良しとするお墨付きがもらえるほどの「人望」と「財力」に裏打ちされていなければなりませんでした。
参考に、神奈川県立歴史博物館・海の村の年貢には、三浦半島の城ヶ島村は、明治初期の調査で戸数78戸、船は合計89艘を有していたとあります。
ちなみに、冒頭写真の横浜村は、1859年とあり、開港場として本格的に整備が進むきっかけとなったオランダ領事館(1861年、神奈川宿から最初に引越し)あたりで、かなり立派な苫屋が並んでいるのが見て取れます。
軒のひしめく対岸の神奈川宿と見比べれば「寒村」かもしれませんが、幕末の漁村は干鰯(ほしか:イワシを乾燥させて製造した有機質肥料の一種)の製造・売買でかなり潤っていました。
江戸時代、一定量を割り当てられた年貢米の生産を維持するために、干鰯(魚肥)は欠かせないものになっていたからです。
草木灰や人糞に比べて、手に入りやすく即効性があったからともいわれていますが、幕藩体制の財政維持のための新田開発が、秣場(まぐさば:近世農業では、家畜の飼料や田畑の肥料として使う草を刈り取る非常に重要な営農の基盤となる場所)を減少させてしまったためともいわれています。
でも、秣場ってどんな光景なのかな?と、ず~っと思っていましたが、日活映画のフィルムアーカイブに「草を刈る娘」という映画が配信され、背景が戦後とはいえ、こんな習俗が江戸時代の村々にもあったんだな、と想像させてくれます。
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「はまれぽ」の記事に、横浜市歌は強制して歌わせてはいないとありますが、戦前は君が代とともに歌唱指導が行われていたようです。
「戦後、占領軍がまず横浜に駐留したこともあり、軍国主義の復活をイメージさせる君が代はNGで、横浜市歌はOKだったことから、学校行事に歌われ、市民もそれを良しとして、アイデンティティーの象徴となり、右も左も関係なく、どんな行事でも好んで合唱できるのが、イイんじゃない!」と、当時、横須賀市民だったメタ坊が、楽しそうに大合唱する先輩たちを不思議に思い、聞き出したお言葉です。
PCを使って映画を見ていると、映画館ではないので、都合がいいときにON・OFFできるので、ついついヨーグルトづくり。

作り方は・・・
ただし、冬なので温度管理には気を付けましょう!
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メタボ対策で始めたものの、今は認知症予防10か条を実践すべくブログしてます。
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